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大宮今昔物語

縄文土器(右)と弥生土器
▲縄文土器(右)と弥生土器

大宮地域には古くから人が生活を営んでいました。茅峯遺跡や泉沢B遺跡からは縄文時代早期後半の土器が出土し、小野天神前遺跡、梶巾遺跡、坪井上遺跡からは当時の暮らしをうかがい知る縄文中期から古墳時代にかけての遺構が発掘されています。
大化の改新以前の大宮町は、常道六国の久自(慈)国と仲(那賀)国に属していたようです。現在の常陸大宮市大宮地域周辺の地名が初めて文書の中に登場するのは、「常陸国風土記」で、今の大宮地域の大部分は久慈の郡に、一部は那珂の郡に属していたと考えられます。
平安時代中頃には秀郷流藤原氏一族が栄えましたが、佐竹の興隆によりその影響力を強く受け、慶長7年(1602年)佐竹20代当主義宣が秋田へ国替えとなるまで約五百年間支配を受けました。

江戸時代には、徳川御三家のひとつ水戸藩の支配のもと、街道の宿場や、久慈川と那珂川を結ぶ交通の要衝としても栄えました。
水戸藩は、領地の支配が安定してくると、藩政の充実をめざし様々な施策に取り組みはじめました。財政の基盤は農業で、那珂川や久慈川などに面するこの地でも治水事業は取り組まなければならない重要な問題でした。
水利事業の中でも、特に江堰の造営は大きな意義を持っており、干ばつに備えて水を貯え、利用することは、多くの農民に生産意欲を持たせることであり、藩財政安定のためには必要なことだったのです。
そのため、藩は町屋(現・常陸太田市)で金の採掘をしていた永田茂衛門・勘衛門父子を呼び寄せ、江堰の造営を担当させることにしたのです。
茂衛門は甲斐の国(山梨県)の出身で、金山開発などの技術をもって甲斐の武田氏に仕えていたと伝えられています。
茂衛門父子は正保2年(1645年)に測量調査を開始し、二年後辰ノ口堰とその用水路の建設にとりかかります。工事は大変困難を極めましたが、5年の歳月をついやして慶安2年(1649年)春完成しました。それによって干ばつの被害は減り、年貢米も1万8000俵から2万3500俵に増加したと伝えられています。
現在この辰ノ口堰の周辺は、親水公園として整備され、往時の偉業を偲ぶと共に人々の憩いの場となっています。
約260年続いた徳川幕府も、時代の波とともに激動の時代を迎えます。大宮地方も天保改革をめぐる改革派と保守門閥派の対立に巻き込まれ、天狗諸生の争乱によって大宮地方からも戦死者を出しました。
その後明治維新により体制も大きく変わります。明治4年の廃藩置県によって大宮地方は水戸県となり、同8年に茨城県となりました。当時この地方の村々は47の小区に分かれていたようです。同5年には学制が公布され、明治8年には大宮区域で東野小学校をはじめ全部で14校が開校されています。
明治22年には町村制が施行され、大宮村が旧大宮町として、その他玉川村や大賀村、世喜村、上野村、静村、大場村、塩田村の各町村が発足します。
第2次世界大戦後は、農政改革や新制中学校の建設などとともに政治や経済面で旧大宮町も大きく変化し、経済復興などで民心も安定してきます。昭和28年には町村合併促進法が制定され、旧大宮町や隣接各村に新しい時代の胎動がもたされます。
これを受け昭和30年3月、大宮町、上野村、大賀村、玉川村、大場村と世喜村、静村の一部の1町6村が合併、旧大宮町が発足します。同年7月1日、塩田村が分村合併して旧大宮町が誕生したのです。

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