市の紹介

常陸大宮市役所 庁舎

茨城県常陸大宮市は、 那珂郡大宮町山方町美和村緒川村・東茨城郡御前山村の5町村が合併し、 平成16年10月16日に誕生しました。

合併前5町村の沿革

大宮町

大宮町では、旧石器時代の梶巾遺跡をはじめ、縄文時代中期から晩期の小野天神前遺跡や坪井上遺跡、弥生時代の富士山遺跡など、多数の遺跡から遺物が発見され、古くから人々が住む豊かな地域であったことがわかります。

古代の大宮地域は、常道六国の久自(久慈)国と仲(那賀)国に属していたと考えられます。現在の大宮町周辺の地名が初めて文書に現れるのは「常陸風土記」で、町の大部分は久慈郡に、那珂川沿いの一部の地域は那賀郡に属していたようです。

平安時代の中期には秀郷流藤原氏一族が栄えましたが、その後は佐竹氏が興隆し、当地域もその支配下に入りました。佐竹時代には、当地域は水墨画の奇才雪村周継を輩出するなど、優れた文化を育んだ土地柄でした。しかし、徳川家康の勢力拡大に伴い、佐竹氏は慶長7年に秋田に国替えを命じられ、約500年間に及んだ支配が終焉をみます。

佐竹氏が移封されると、当地域は完全に家康の掌握するところとなり、水戸藩領となりました。水戸藩時代の大宮地域は、街道の宿場として機能するとともに、久慈川、那珂川の河川交通や物流の要衝として発展してきました。なかでも永田茂衛門父子による三江堰の開発をはじめとする利水事業は、往年の偉業として今も語り継がれています。

明治維新を迎え、当地域は明治4年に廃藩置県により水戸県、次いで明治8年に茨城県に編入となりました。また、明治4年に公布された戸籍法によって戸籍区が編制されましたが、次第に行政区化し、明治6年から大区小区制が敷かれ、地方行政組織が整備されました。さらに明治21年に施行された市制町村制により、大宮町、玉川村、大賀村、上野村、静村、大場村、世喜村、塩田村が誕生しました。

昭和28年に町村合併促進法が公布されると、同30年中に大宮町、玉川村、大賀村、上野村、大場村と世喜村、静村、塩田村がそれぞれ分村する形で合併し、大宮町が発足しました。

山方町

山方町は、旧石器時代の石器が発見された駒形平遺跡をはじめ、縄文時代、弥生時代を通して数多くの遺跡が確認されています。地理的には奥州に接する地で、町の中心部は「常陸風土記」にも記述のある久慈郡の河内郷でした。また同書には、久慈川の鮎や照山地区の鏡岩の記述もあり、古来から豊かな自然と情趣に恵まれた地域であったことがわかります。

中世には佐竹氏の重臣山方能登守が館地内に支城を築き、当地域を支配しました。その支配は、慶長7年に佐竹氏が秋田に移封されるまでおよそ500年にもわたりました。

佐竹氏移封後は、徳川頼房を初代藩主とする水戸藩の領地となりました。水戸藩領時代の山方地域は、南郷街道の宿場町として栄え、今に「山方宿」の名を残しています。特に佐竹氏時代から始まり近世になって盛んとなった西野内和紙と、諸沢村の中島藤右衛門により産業化されたコンニャクで著名でした。また幕末には、同じ諸沢村から水戸学の大家、会沢正志斎を輩出しています。

徳川幕府が崩壊し、明治維新を迎えると、当地域は明治4年に水戸県へ、続いて明治8年に茨城県へ編入となり、さらに同6年の大区小区制の施行により、那珂郡山方村、同郡塩田村、久慈郡諸富野村、同郡下小川村、同郡世喜村の5か村が誕生しました。

このうち、山方村は昭和22年の町制施行により山方町と改称しました。そして昭和28年の町村合併促進法施行に伴い、同30年山方町に、諸富野村、下小川村及び世喜村、塩田村の一部が編入合併し、山方町が誕生しました。

 

美和村

美和村は、村内を流れる緒川に沿って、諏訪遺跡や下檜沢遺跡など縄文時代の遺跡が数多く存在し、その遺物から人々の生活の痕跡を知ることができます。

中世における美和地方は、常陸国北部に位置する久慈西部に属していました。平安末期からは久慈東部を本拠地とする佐竹氏の支配下に入りましたが、村域が下野国の那須氏との境界にあたることから、佐竹氏にとっては防衛上の重要拠点でした。

長期にわたった佐竹氏の支配も、慶長7年の秋田移封により終焉を迎えます。その後は、水戸徳川家の領地として明治まで存続しました。

水戸藩領時代の美和地域は、薄井家をはじめとする規模の大きな紙問屋が営業を展開し、北関東における和紙の生産を担う地でした。下野(栃木県)・常陸国境に位置する鷲子山神社は、製紙の神として両国からの信仰を集め、その祭礼に用いられる山車や屋台には、「鷲子彫り」と呼ばれる壮麗な彫刻が施され、現在も近在にその名品を見ることができます。

また、当地域は水戸藩領内有数のたばこの産地でもあり、享保期から寛政期頃にかけては米に次ぐ重要な農産物でした。

明治維新後は、廃藩置県により明治4年7月に水戸県となり、さらに同年11月に茨城県へ編入となりました。明治6年の大区小区制施行の際には第11大区4小区になり、次いで同8年には第4大区5小区となりました。明治17年の連合村などの変遷を経て、同21年の市制町村制の公布、翌年の施行の際には、氷之沢、下檜沢、上檜沢の3か村が合併して檜沢村に、高部、小田野、鷲子の3か村が合併して嶐郷村が誕生しました。

その後、昭和28年の町村合併促進法を受け、隣接の小瀬村(緒川村)、塩田村(大宮町、山方町)を含む地域との合併も検討されましたが、最終的には同31年に檜沢村と嶐郷村が合併し、美和村が誕生しました。村名の「美和村」は、住民から公募した結果最多であった名称が採用されたものです。

 

緒川村

村内を流れる緒川流域には、那賀上台の陣向をはじめ梶内遺跡、下小瀬川崎遺跡など、数か所の縄文遺跡が発見されており、遺物や住居跡など人々の生活をうかがわせるものが残されています。

大化の改新以後は、那賀・久慈・多珂・新治・筑波・茨城の六国からなる常陸国となりました。

12世紀頃から、藤原秀郷五世の曾孫通直を祖とする那珂氏によって支配がはじまり、14世紀の前半まで続きました。その後、佐竹氏の一族小瀬三郎義春により小瀬城が築かれ、佐竹氏が那珂氏に代わることとなりました。佐竹氏は、慶長7年に秋田に移封されるまで、およそ500年にわたり当地域を支配しました。

江戸幕府の成立により水戸藩領となった緒川地方は、水戸や黒羽、大田原へつながる水戸街道沿いにあり、特産物の和紙や葉たばこの交易には欠かすことのできない交通の要衝でした。

明治4年の廃藩置県では、現在の大字がそれぞれ1つの村を形成していましたが、明治6年に大区小区制、同15年に連合村制が施行されるなどの変遷を経て、明治21年に公布され、翌年4月に施行された市制町村制により、那賀、下小瀬、国長、小玉、上小瀬の各村が合併して小瀬村に、大岩、小舟、油河内、松之草、小瀬沢、吉丸、入本郷、千田の各村が合併して八里村となりました。

明治32年9月には、県内3校目の実業教育機関となる小瀬村立農業補習学校が創立開校し、以来100年余、男女共学の実業学校として歩み続け、現在の県立小瀬高等学校の姿となりました。

昭和28年に町村合併促進法が施行されると、経済的・地域的に結びつきの強い小瀬村、八里村の合併がまとまり、昭和31年9月に緒川村が誕生しました。新村名の由来は、村の中央を流れ、広く住民に親しまれている「緒川」の名にちなむものでした。

 

御前山村

御前山村には那珂川沿岸とその支流緒川の沿岸に、西塙や高内などの縄文時代の遺跡や、京銭内などの古墳時代の遺物が発見されており、山間部においても古くから人々の生活が営まれていたことがわかります。

大化の改新後は、常道六国が統合された常陸国に入り、御前山地域はこのうち那賀郡に属していました。

中世には、藤原秀郷五世の孫公通によって支配されていましたが、やがて佐竹氏の勢力拡大によりその支配下に置かれることとなりました。佐竹氏八代彦次郎行義の次男三郎義綱がはじめて長倉に築城し、以来、長倉氏を名乗っておよそ280年の間、長倉村を支配しました。室町時代においてすでに当地域は、那珂川の舟運によって野菜、木綿、紙、薪炭等が取引される際の重要な集散地でした。

慶長7年に佐竹氏が秋田へ移封されると、当地域は徳川家が治める水戸藩の領地となりました。この頃の那珂川は、下野(栃木県)と常陸を結ぶ一本の流通路として結ばれ、野田や長倉の河岸は積替中継地となり、野口河岸も重要な役割を果たしていました。当時の長倉村は、藩に献金をするような富裕な商店が軒を連ね、領内有数の繁栄を誇った土地でした。近世初期には13の村で構成されていましたが、幕末には大畠村と野口村、福岡村と中居村がそれぞれ合併し、11村となり明治を迎えました。

廃藩置県により、明治4年7月に水戸県、同年11月には茨城県に所属することとなりました。その後、明治21年に公布された市制町村制の施行により、野口村、野口平村、門井村の3か村が合併して野口村に、同じく上伊勢畑村、下伊勢畑村、桧山村の3か村が合併して伊勢畑村となりました。続く昭和の大合併の際には、昭和30年2月に野口村と伊勢畑村は合併し、御前山村の姿となりました。御前山村という名前は、茨城百景のひとつにも数えられ、「関東の嵐山」と呼ばれている御前山に由来しています。

面積

市の面積は、東西約20.8キロメートル、南北約26.4キロメートルにおよぶ348.45㎢で、 茨城県のおよそ5.7%にあたります。合併によって、県内では常陸太田市に次いで2番目の規模となっています。
土地利用の状況をみると、農用地が約17%、森林原野面積が約60%を占めていて、市の北部はとりわけ緑豊かな自然環境となっています。

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  • 【ID】P-1342
  • 【更新日】2023年10月11日
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