常陸大宮市史編さん事業の本格始動に伴い、平成28年9月発行の「広報常陸大宮」から、市史編さんだよりの連載をスタートしました。
常陸大宮市史編さんだよりvol.86
資源としての河原の植物
近世史部会 専門調査員
國學院大學栃木短期大学
教授 坂本 達彦
江戸時代の人々にとって、植物は生活のための貴重な資源でした。例えば、家屋は木造で屋根は萱葺き、食料の煮炊きなどに利用する燃料は薪や炭が用いられました。また、農業を行う上で草肥は重要な肥料でした。
本年4月に刊行された『常陸大宮市史 資料編3 近世1』(以下、「本書」)では、このような資源に関する史料も多く掲載しています。本書にも掲載した「御立山御用一巻」(山方・瀬尾家文書)は、藩有林である御立山に関連する記録に加え、村人による自然資源の採取や、採取をめぐる争いなどに関する記事も含まれた貴重な史料です。本コラムではこの史料に記録された事件を取り上げてみたいと思います(本書5-51)。ただし、提出用の清書ではなく書留のため、誤記なのか文意が通じない箇所があるうえ、現時点で関連する史料が見つかっておらず、あいまいな表現になることを先にお断りしておきます。
植物の採取は水辺の河原などでも行われました。人々が適切に管理すれば、萱や肥料となる植物が茂ったためです。枇杷川(久慈川支流)の河原でも植物の採取が行われていました。しかし、宝暦4年(1754)6月、採取が禁じられてしまいました。これに対し村人たちは撤回を求めた訴願活動を行います。その結果、「野銭」(小物成の一種、田畑以外に課される雑税)を上納していることを理由に、一部の空き地での採取は認められましたが、この段階では全面的な禁止の解除に至りませんでした。
ただし、いくら禁じられようとも、当時の人々が生活するうえで必要不可欠です。実際、4、5人の者が河原で禁止された草刈りをしている姿が目撃され、問題となりました。旧暦の3月のことと思われるので、萱を採取していたのかもしれません。犯人となった者たちも、やむを得ず犯行に及んだのでしょう。さっそく、逮捕すべきという指示が出ましたが、この結末は不明です。
このように領主の禁令があったとしても、それを犯して植物が採取されたのです。この事実からも、植物が当時の人々にとって、どれほど重要な資源であったのかがわかります。本書には、これ以外にも様々な史料が掲載されています。ぜひ、お手にとっていただければと思います。江戸時代の文章が読めなくても、各章の最初に掲載史料の解説があるので、それを読むだけでも江戸時代の人々の生活について知ることができると思います。
▲「御立山御用一巻」山方・瀬尾家文書
▲現在の枇杷川の様子